日本橋コレド室町からJR東京駅八重洲口へ [東京散策]
この日は、JR上野駅から昭和通りを買い物をしながら歩いて、
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COREDO(コレド)室町2の角に来ました。
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近くにあるブロンズ胸像は、古河財閥の創業者古河市兵衛翁の彫像で、
そばの石碑には、
「古河市兵衛翁は天保三年(一八三二年)京都岡崎で生まれる
行商から身を興し明治八年鉱山経営に着手 その強靱な気根と不撓の行動力より幾多の困難を乗り越え『鉱山王』と呼ばれる 足尾銅山の発展を基盤として多角経営に進出 これが今日における古河グループ発展の基礎となる
この地は翁が明治十年住居兼古河本店としその後二十年間事業の拠点とした発祥の地である」
と刻まれています。
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COREDO室町の各建物内は撮影禁止になっています。
店内を見て回りアップルパイと漬物を土産として購入
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テレビCMでお馴染みの福徳神社の鳥居
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隣接する工事現場の仮設パネルに貼られている「豊年萬作之圖」下の福徳神社御由緒には、
「当社の創祀された時は明らかではありませんが、当社に伝わる略記によると、貞観年間〈清和天皇・八五九~八七六年)には既に鎮座していたようです。
武蔵村の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。
その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標〈石造一里塚)を『稲荷の一里塚』と呼び親しんでいました。
後の明暦三年酉年(一六五七)正月八日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。
その碑銘の写しは次の通りです。
(表)宮戸川邊り宇賀の池上に
立る一里塚より此福徳村
稲荷森塚迄一理
(裏)貞観元年卯年
三つき吉祥日
そもそも当社は、元来武将の信仰があつく、源義家朝臣(みなもとのよしいえあそん・一〇三九~一一〇六年)が深く崇敬されていたことが記されていた、と伝わっています。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。
天正十八年〈一五九〇〉八月一日に入府した徳川家康公は、同じ八月に初めて参詣され、その後の参詣は数度に及びました。
別名 〝芽吹神社〟
さらに、二代将軍秀忠公は慶長十九年〈一六一四〉正月八日に参詣し、『福徳とはまことにめでたい神号である』と賞賛されました。この時、当社古例の椚の皮付きの鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、当社の別名を『芽吹神社』とされました。
元和五年〈一六一九〉二月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに『社地縄張を三百三十坪』と定められました。
平成二十六年十月
鎮守の森
〝芽吹神社〟が蘇る 」
が書かれています。
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福徳神社社殿
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社殿の神額
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COREDO室町1とCOREDO室町2の間にある通路
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COREDO室町1、COREDO室町2、COREDO室町3が見える交差点
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COREDO室町から離れ日本橋に向かいます。
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日本橋親柱の一つ
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日本橋親柱の照明灯と獅子像
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親柱の獅子像
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中央柱
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中央柱の照明灯
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中央柱にある麒麟像
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JR東京駅丸の内口に比べ、ほとんど寄ることがない新しくなった八重洲口
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JR東京駅八重洲中央口
大分雰囲気が変わっています。
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